ツインレイや精神の話とか。

既に知っている、ということ。

私は、時たま見えてくるある特定の映像等を、これまで“予感"と呼んで認識していた。それが曖昧な予感ではなくて、(大まかなものだが)今後そうなるという明確な事実であることに(個人の意識ではなく)気が付いた時、同時に、“予感"と名付けて見ていた景色を自我意識では、「 “不確定な未来映像"として捉えていたかった」ということも知った。それは、わずかに働いている思考において、ある確定された未来を“既に知っている"という事態を受け入れることへの抵抗からきていた。ことも後に知った。
肉体の次元では、それはこれからである未来の話だが、“既に知っていて、けれど今からそれらを体験していくのだ"という時差の面白味は、個として肉体分離し、時間という体験を味わえる場所、にいるから出来る楽しみである。