ツインレイや精神の話とか。

全部が丸く納まっていく。

宇宙(内なる自己)へは、誤魔化しは利かない。「叶えたい」と意図したことの奥底に、「けど、まぁまだ無理だよね」とか「でも、やっぱり叶わないんでしょ?」という思いがあると、宇宙はその思いも汲み取って綺麗に叶えてしまう。だから、「けど、」「でも、」と否定・疑問した未来が形を整えてきちんと目の前の世界に顕れる。本当に望まなくとも、自分が意図したものとして。

そういうものが自分の内側の、本当に深く奥底に張り付いて、“叶えて欲しくはない”創造への効力を発揮してきたことは、これまで外側の世界でいくつか目にしてきた。それはツインレイのことであったり、他のことであったり…。それを見つける度に、「あぁ、また上手いこと創造しましたね」と思いながら、悶々としたり、自我に巻かれてアワアワしたりして、それすらも見つめて内観してきた。そして昇華した。

そんなことの観念昇華、たぶん最後の最後くらいの一つの観念が(新たに生み出したら最後でもないけれど、)ちょこっと残っていたことに気が付いて、「それまだ残ってたんだな~、そういえばそうだね。あったね」って認めて受け入れて、そうして許可した後の今、全部が丸く納まった、統合(←個じゃなくて、ツインレイの)された世界にいるような感覚の中にいる。

個の意識の中の奥の方には、「ツインレイの統合まだ早いでしょ、まだそんな世界じゃないでしょう」という思いがあったよう。それがつるんと抜けて、意識はまた一段とすっきりと、晴れやかになる。それは、どんどんと加速している宇宙の様相そのもの過程みたいで、個として在りながらも、そうやって宇宙という全体性でもあることをさらに実感するとても楽しくて面白い状態だ。

もう叶えていいのだ。一緒になることを許可してもいいのだ。幸せになるということを。それをずっと怖がっていたのは私だ。小声で「まだ、」という言葉を付け加えて、そうなるのを我慢していたのは私の意識だった、ずっと。その気持ちがあったことを見つめて受け入れて、そして許可をした。私は今、その中にいる。

八の月へ入って

七の月の終わり頃は、「こんな観念そういえばちょっと残ってあったんだなぁー」と思うようなところを見つけて、それを内観したりでした。思考が少し重たくなっていた感じでした。それが、八の月に入ってすっと治まり、新しい月へ変わったんだなーと、体感して、いま思っています。

先月ぐらいに辺り一帯漂っていた虹色が、いまは、雨の後に見えるあの半円の虹の形を成しています。それを見て思い出したのは、空から見た形の虹、一つの円である虹の形でした。
今月には八日のライオンズゲートや日蝕、月蝕などもあるからか、いまものすごく“ツインレイ”というものに光が照らされているような、ぴかりと発光しているような、そんな感覚が私の内に強くあり、自分の意思とは関係なくそこへ意識が引き付けられている感覚です。
虹の話も、そんなツインレイに関してのものなのだろうなと、漠然とですが思っています。

地球という場所での在り方

個としての“私(自我)”があるから、現象を見ることが出来て、それに感情や感想やら色々と思うことが出来る。その奥の、観察者のいない視点は、“私”という者がないので、ただ現象をそのままに観察しているだけ。見通しているだけ。
その二つの所(多次元である視点)から、日常という現象を見て、触れて、過ごしている。そうして、私というものがいない中から、私という者を使って、こうして文字などを書き出すままに書いています。
居ないのに在るって、言葉にするととても変な表現ですが、一つのもの(統合・一元)でありながら、個体(分離・二元)でもある矛盾は、この地球での在り方。

既に知っている、ということ。

私は、時たま見えてくるある特定の映像等を、これまで“予感"と呼んで認識していた。それが曖昧な予感ではなくて、(大まかなものだが)今後そうなるという明確な事実であることに(個人の意識ではなく)気が付いた時、同時に、“予感"と名付けて見ていた景色を自我意識では、「 “不確定な未来映像"として捉えていたかった」ということも知った。それは、わずかに働いている思考において、ある確定された未来を“既に知っている"という事態を受け入れることへの抵抗からきていた。ことも後に知った。
肉体の次元では、それはこれからである未来の話だが、“既に知っていて、けれど今からそれらを体験していくのだ"という時差の面白味は、個として肉体分離し、時間という体験を味わえる場所、にいるから出来る楽しみである。

“問題”を手放す

何事かの根本的な解決をしたいのであれば、解決しようとすることを止めてみることです。“問題”があるとして、それを思考で解決させようとしても、それは一時的な解決にしかならないです。問題として捉えたものを、「どうして問題だと思ったのか」ということを、内側を観察(内観)して見つめていかないと、問題として捉えたそれは自身によって何度でも出てきてしまいます。(←内側にあるものが外側に反映されているからね。)

全てひっくるめて根源に明け渡し、内観する。自分が、自分の世界の創造主であること(創造していること)が腑に落ちてくると、ゼロからの新しい創造が出来る事にも気付いていきます。
自由であったことからの、創造のスタート。あなたはあなたのための世界を。

『還るときには』

いつかは誰もが、自分の一対の相手と出会う。自分がここに居るということは、その相手も必ず居るということ。同じ場所であったり、ここではない別の場所であったり、くっついて一緒にいたり。還るときには、また一つ。その時を皆待っている。ここや別のどこかで、互いの魂が思いを馳せながら、それまでの刻を遊んでいる。「いってらっしゃい」と「ただいま」を、何度も織りまぜて。

あなたの道程に愛を込めて。

魂の選択

私という個の体験上からですが、執着も外れた、思考無きところからの選択に、『レイ相手と三次元(肉体)的に一緒にいること』があります。それは、自我無きところからの自我の選択と言いますか、言い換えて、魂からの選択とも言えますが、そんなところからの幾つかの創造の中に、その選択(という必然)がありました。それをまた別の言葉で表現するなら、役割とか使命とか、そういったものになるのだろうなと思います。
観念も多く、自我も強くあった頃には、“一緒になること”が執着からくる羨望なのだろうかと思うこともありました。自我でもってして、それを取り除こうとしたりしていた時期もありました。けれど、今こうして個人意識も外れているような中から思い至り、見えてくるのは、一緒にいることの選択の先には、宇宙の循環、顕れの一つとしての、意図された(してきた)創造でした。