ツインレイや精神の話とか。

自分への許しと自由

誰かの言葉や行動に「許せない」という意識を持つ時は、あなた自身がそれらの言動を持つことを許せていないから。あなたが外側で裁いている“誰か”は、本当は〈あなた自身〉のことだ。
あなたがあなたの全てを許せた時、外側の事に、以前のようには反応しなくなる。自身の自由を許すと同時に、他者の自由も許せている。
裁くものなど、はじめから存在していなかったのだ。

地球という場所での在り方

個としての“私(自我)”があるから、現象を見ることが出来て、それに感情や感想やら色々と思うことが出来る。その奥の、観察者のいない視点は、“私”という者がないので、ただ現象をそのままに観察しているだけ。見通しているだけ。
その二つの所(多次元である視点)から、日常という現象を見て、触れて、過ごしている。そうして、私というものがいない中から、私という者を使って、こうして文字などを書き出すままに書いています。
居ないのに在るって、言葉にするととても変な表現ですが、一つのもの(統合・一元)でありながら、個体(分離・二元)でもある矛盾は、この地球での在り方。

既に知っている、ということ。

私は、時たま見えてくるある特定の映像等を、これまで“予感"と呼んで認識していた。それが曖昧な予感ではなくて、(大まかなものだが)今後そうなるという明確な事実であることに(個人の意識ではなく)気が付いた時、同時に、“予感"と名付けて見ていた景色を自我意識では、「 “不確定な未来映像"として捉えていたかった」ということも知った。それは、わずかに働いている思考において、ある確定された未来を“既に知っている"という事態を受け入れることへの抵抗からきていた。ことも後に知った。
肉体の次元では、それはこれからである未来の話だが、“既に知っていて、けれど今からそれらを体験していくのだ"という時差の面白味は、個として肉体分離し、時間という体験を味わえる場所、にいるから出来る楽しみである。

“問題”を手放す

何事かの根本的な解決をしたいのであれば、解決しようとすることを止めてみることです。“問題”があるとして、それを思考で解決させようとしても、それは一時的な解決にしかならないです。問題として捉えたものを、「どうして問題だと思ったのか」ということを、内側を観察(内観)して見つめていかないと、問題として捉えたそれは自身によって何度でも出てきてしまいます。(←内側にあるものが外側に反映されているからね。)

全てひっくるめて根源に明け渡し、内観する。自分が、自分の世界の創造主であること(創造していること)が腑に落ちてくると、ゼロからの新しい創造が出来る事にも気付いていきます。
自由であったことからの、創造のスタート。あなたはあなたのための世界を。

還るときには

いつかは誰もが、自分の一対の相手と出会う。自分がここに居るということは、その相手も必ず居るということ。同じ場所であったり、ここではない別の場所であったり、くっついて一緒にいたり。還るときには、また一つ。その時を皆待っている。ここや別のどこかで、互いの魂が思いを馳せながら、それまでの刻を遊んでいる。「いってらっしゃい」と「ただいま」を、何度も織りまぜて。

あなたの道程に愛を込めて。

魂の選択

私という個の体験上からですが、執着も外れた、思考無きところからの選択に、『レイ相手と三次元(肉体)的に一緒にいること』があります。それは、自我無きところからの自我の選択と言いますか、言い換えて、魂からの選択とも言えますが、そんなところからの幾つかの創造の中に、その選択(という必然)がありました。それをまた別の言葉で表現するなら、役割とか使命とか、そういったものになるのだろうなと思います。
観念も多く、自我も強くあった頃には、“一緒になること”が執着からくる羨望なのだろうかと思うこともありました。自我でもってして、それを取り除こうとしたりしていた時期もありました。けれど、今こうして個人意識も外れているような中から思い至り、見えてくるのは、一緒にいることの選択の先には、宇宙の循環、顕れの一つとしての、意図された(してきた)創造でした。

ある日のビジョンの2

ある日のビジョン]に続く後半部分にあたるだろうビジョンは、前半部分を見るよりもずっと前に、一度見た映像でした。その後、二度目に繰り返して見せられた時は、今から一月ほど前の、眠りに就こうとした矢先でした。

何の前触れもなく始まった映像には、二人の子供の姿がありました。一人は少年で大体小学生ぐらい、もう一人は少年よりももっとずっと幼くて、生まれてからまだ数年しか経っていないように見えました。隣り合った幼い子供の様子を少年は見ていました。そして、「早く大きくなってね」というような言葉を掛けていました。
男の子がまだ少年であった時は喜んでいる様子でしたが、映像が回って、時間の経過が見えてくると、だんだん悲しんでいるように見えました。そこには、“気付いてもらえない”という感覚がありました。

ここからは、一部分が、映像から感覚的なものへと変わりました。ぐるぐると時間の巡る中伝わってくる感覚は、“苦しくて離れたいけど、離れられない”や“いつかは気付いてくれる”といったものでした。感覚を言葉に変換して受け取っているような状態だったので、まるっとそのままの言葉ではないと思います。近い表現、とかであるかと。

肉体の年齢的にいうと、私の方がレイ相手より何年も後に生まれていますし、相手がこちらの方を随分前から知っていることなどから察するに、これらのビジョンは、これまで相手側が辿ってきた一部なのかもしれないと思っています。そして、相手の記憶のようなそれを私側が追体験するように見た訳は、〈ツインレイが一つの魂である〉と言われている事からだろう、と思っています。